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せっかく皆さん楽しんでくださってるので、
私も年内にもうひとつ、と思いました。

偶像町幻想百景「冬の折、如月の頃」

Q. 偶像町幻想百景ってなんですか?
A. ワールド再定義系・幻想郷風アイマス二次創作群です。
 詳しくはこちらをどうぞ。偶像町幻想百景まとめwiki
――永い時間を生きる私の役目は、きっと移ろいゆく営みを遠巻きに見守る事で。

 幾度となく深く関わる事を繰り返して、その度に悔いて、涙を流し、こんな事をするのではなかったと拭い、乾く喉と心を持て余しては、絶えず慟哭を飲み込んだ。今の借り住まいの主、契りを交わした神通力の娘であってもそれは例外なく、私よりも遥かに早く育ち、老い、移ってゆく。つい先日出会った時は幼子であったけれども、直ぐに擦れ違う殿方がこぞって振り返る、美しい娘に成長するだろう。私はそれを羨ましく思い――また、同じ時の流れを歩む事を、私は諦めている。

 だから、あの時、今度もそうなのだと思って。腕の中の温もりを、信じようとはしなかった。

*

 冷え切った空気が偶像町を満たす朝。
 
 踏み締めた草履の下で、堅く結んだ雪が軋んだ。陽はまだ浅く、白んだ空は淡い青色にくすんで、淡雪をちらほらと、ひとひらふたひら落としていた。一足歩み出る程に、きし、きしと冷え切った雪が草履に擦れ、高く耳障りな音で啼く。嫌いではない。冬の訪れはいつでも心弾む。いくら時は流れても変わらずに私に会いに来てくれるものの一つだから。肌寒さも人よりは冷えた身には心地良い。一張羅の黒をわざと引き摺っては白く絡みつく雪を跳ね上げ、早朝の人気のない町並みを子供の様にはしゃいではくるくると無邪気に回って歩く。吐き出す息が思ったよりも白くて、この寒さは流石に人には堪えるのだろうと考える。離れで惰眠を貪りながら毎日顔を出す筈の巫女を待ってとりとめのない話に精を出しても良かったが、賑やかで少々お節介な妙齢の女性達に混じって他愛のない噂話に花を咲かせる誘惑もなかなかに魅力的だ。けれどもこう寒いと、朝方から世間話に一生懸命になる人の姿も見えず。
 私は仕方なく町中の散歩を諦め、少し外れる林を抜けて離れに戻る道を選んだ。

 葉を落とし枝だけを伸ばした林の木々は夏の盛りの頃よりもずっと細身で遠慮がちではあったけれど、それでも登り始めた陽を遮るには充分に鬱蒼とその両の腕を伸ばし広げていた。薄日と影が交互に落ちる雪の小路を軽快な足取りで踏み締め進む。人の通りが少ない雪道は先日から積もったままでふわふわとして、草履を柔らかく受け止める。その感触を愉しみながら鼻歌など漏らしてふわりふわりと歩いていると、ふと何かの鳴き声が聞こえた。
 気になって足を止め、良く耳を澄ませてみると、確かに聴こえる。林の奥から、くぅん、と、何度も何度も切なげに鼻を鳴らすような声。犬だろうか。それもまだ幼い。私は何故だか居ても立っても居られなくなって。声のする方へと急いだ。
 林の中でも少しばかり開けた場所に出て、私は声の主に気が付いた。丁度広場の真ん中あたりに一際大きな石が雪に埋もれて転がっている、その影に、蒼い小さな影がひとつ。気取られない様にそっと近寄り、息を潜めてじっと見る。
 やはり犬だった。丁度両の掌で載るだろう、小さな体躯の幼い仔犬。そしてその足元にももう一匹、瓜二つの犬が横たわっていた。最早ぴくりとも動かないその身体を舐め、鼻を鳴らしては頭を擦り付ける仔犬の姿が堪らなくて、私は思わず声を掛けていた。
「ねぇ、その子は」
 それまで鳴くばかりだった仔犬はさっと私に向き直り、そして四肢をぴんと張りつめて横たわる犬を庇うように立ち塞がると、私を睨めつけ喉を鳴らした。幼いながらも鋭く立派に生え揃った牙を剥き、全身の毛を逆立ててぐるぐると唸る。金色の瞳が濡れて歪み、真っ直ぐに私を捉えていた。
 ああ。この子は。一つの光景がふっと浮かんで、揺れて重なる。互いにじゃれ合っては舐め合う、蒼い毛並みの二匹の仔犬。同じ母親の胎から生まれ落ちた血を分けたきょうだい。自分の半身にも等しいそれを喪ったのか。

――可哀想に。

 私は反射的にそう思い、そして頭を振った。生も死も移ろいゆくもの。私の手の中に収めるなんて出来ない事は、今まで何度も何度も嫌という程思い知らされてきた事。
 触れてはいけない、干渉してはいけない。時が流れゆくままに。運命の赴くままに。それでも。

 私は、屈んで姿勢を低くして、唸ったままの仔犬に右手を差し伸べた。
 仔犬が甲高く吠える。私は手を引かない。
 仔犬が噛みついた。指先に牙が食い込み、鋭い痛みが走る。
「――っ」
 私は思わず痛みに顔を顰めた。仔犬は暫く私の手に食らいついたまま、じっと私の顔を見つめていた。その瞳が険しいものから段々と申し訳なさそうな、私を案ずるものに変わっていく。
 きっと、とても心の優しい子なのだろう。きょうだいを喪ってなお愛しく想い、離れる事が出来ない程に。
 私はその子を安心させるように、出来るだけの笑顔を作ってみせた。

「……あなたの大切な子、弔うくらいは良いでしょう?」

 しばしの後、仔犬はゆっくりと顎を緩めて私の手から離れ、またきょうだいの亡骸に寄り添った。

*

 庭の隅の石燈籠の横の雪を避けて土を掘り、仔犬の亡骸を納めた。私が手で土を掛けてやる間、その子は少しずつ土に埋もれてゆくきょうだいの姿を大人しくじっと見守っていた。
「お待たせしました」
「有難う」
 振り返ると、離れの主がまだ幼さの残る小さな腕いっぱいに金鳳花の花を携えて戻って来ていた。
 大した事はしてあげられなかったけれど、土を被せた小山に小さな板切れを立て、黄色の小さな花を付けた金鳳花を供えてやる。墓標には如月の姓を刻んだ。ありきたりだけれども、この子達と出会った時を忘れない為に。
 そうして、二人と一匹で手を合わせ、長い時間を掛けて、仔犬の安らかな眠りを祈った。

 冬の天気は変わり易いもので、今朝方こそ好天の兆しを見せていたものの、昼前になってやおら曇り出し、正午を過ぎる頃にはもう灰色の空から厚ぼったい牡丹雪が後から後から舞い降りていた。
「冷えてしまうわ、お入りなさい」
 そう声を掛けたものの、蒼色の仔犬はきょうだいの墓前に蹲り、一歩たりともそこから動こうとはしなかった。別れは辛いもの。血が濃ければ濃い程、共に過ごした時間が長ければ長い程、互いに通わせた情が深ければ深い程、やり場のない寂しさが募る。それが痛い程良く分かるから、私はその子の思う侭にさせ、早々に屋敷の中に引き上げた。
 茶の間に戻ると、屋敷の本来の主たる神社の跡継ぎが、まだぎこちない手付きで温かな茶を淹れて待っていた。
「あの犬はどうしたのですか」
 私は黙って首を横に振った。無言で卓に着くと、ついと湯呑が差し出された。湯気と共に立ち上る香ばしい香り。寒い日の番茶は格別だと思いながら、湯呑をふうふうと吹きつつ口にする。
「風邪をひかなければよいのですが」
「……そうね」
 私は上の空で相槌を打ちながら庭に目を遣った。石燈籠は丁度襖の陰になってここからは見えない。この寒空の下、外の雪の上に座り込んでいれば、風邪をひくなと言う方が無理な相談だ。増してあの子は犬、それもまだ年端もいかぬ子供。人に到底及ばない仔犬の体躯では、あっという間に体温を奪われるだろう。良くて病を患うか、あるいはきょうだいと運命を共にするだろうか。それも良いだろう。あの子がそれを望むのなら、私にはどうする事も出来はしない。あの子の意志はあの子のもの。私がねじ曲げていいものではないのだから。
「あずさ」
 ぴしゃりと。目の前の娘に名を呼ばれて、私ははっとして顔を上げた。
「貴音ちゃん」
「何を思い上がっているのです」
 どきっとした。
 まだ年端もいかない幼い娘に己の考えを見透かされていたかのような言葉を投げかけられて、私はまるで堅いもので頭を打ちつけられたかのような錯覚を覚えた。
「身を案じて家に連れ戻すくらい、人の情を持つ者として当たり前のことではありませんか?」
 断定はしなかった。この娘の言葉は例え相手が神仏の類であっても事実たらしめんと縛る。けれども今はあえてそうしなかった。つまり、私の意志に委ねているのだと。
 ――そこまで、見抜かれていてはね。
「連れてきます」
 慌てて席を立つ私を見ながら貴音ちゃんは嬉しそうに笑い、お湯を沸かしてきますと台所に立った。

*

 草履をつっかけて庭に出ると、私が屋敷に引き上げた時と全く変わらない様子で、あの仔犬は墓の前で丸まっていた。ただ、小さな体の上には厚ぼったい雪が降り積もり、力無くぐったりとして小刻みに震えていた。大急ぎで抱き上げると酷く冷たい。
「大丈夫?しっかりして頂戴」
 私は仔犬の雪を払って緩めた胸元に埋めた。人よりは冷たい肌であっても、この子の頼り無い温もりを繋ぎ留める役には立たないものかと必死だった。さらに着物の袖で包み込み、少しでも冷えない様に仔犬をしっかと抱きしめて屋敷の中へと駆け戻った。
 茶の間に戻ると、貴音ちゃんが温かな湯に浸した手拭いを広げて待っていた。
「こちらへ」
 僅かな時間でもかじかんで覚束ない指先で、ぎこちなく仔犬を出してやり、手拭いで包んで撫でてやる。それでも目を閉じたまま震えが治まらないので、胸の中で抱いてやり、暖を取った。
 そうして暫くが経ち、夜半を回る頃には、仔犬の震えも治まり、私の腕の中で安らかな寝息を立てていた。私もようやく安心してほうと息を吐くと、貴音ちゃんが私の襟元を正しながら言った。
「もう心配ないでしょう。後はきちんと栄養を取れば、元気を取り戻すに違いありません」
 ね、と、彼女は私の手を取り瞳を覗き込んで力強くそう言った。彼女の藤色の瞳には強い意志が宿っていた。これほど心強い事はない。そう思い、私もこくりと頷いた。
 が、それも束の間。貴音ちゃんは私の手をじっと見て、それから一瞬の後に眉をつり上げ恐ろしい形相で私を睨んだ。
「どうなさったのですか」
「えっ」
 よく見ると、今朝方仔犬に噛まれた痕が丁度牙の位置に二つ、くっきりと残っていた。赤く腫れて、凝り固まった血がこびりついている。
「おおかた不用意に手を出してあの犬にでも噛まれたのでしょう。全く、貴方様ときたら。少しはご自分の身にも気を付けてもらわないと、こうして私が苦労するのです」
「うう、すみません・・・・・・」
 くどくどと耳の痛くなる小言を続けながら、貴音ちゃんは踏み台の上で精一杯背伸びをしながら茶箪笥の上から薬箱を下ろしてきた。中身は風邪薬、傷薬と言った常備薬が大半なのだが、その中を探り、彼女が満足そうに取り出したのは、先日立ち寄った妙な雰囲気の薬師が置いていったえも言われぬ色と匂いの軟膏。「どんな深い傷も一瞬で元通り?」という本当だかそうでないのだか定かではないけれど実際にそうなら蝦蟇の油も真っ青な謳い文句に、少々世間知らずの我が家の姫君はすっかり心奪われてしまったのだった。
「ぜひ試してみたいと思っておりました。さあ、さあ」
 出来るだけ忘れるように努めていたのだけれど、いざ指の上に載せられてついと差し出されると、その色と匂いにたじろいでしまう。
「ねえ、貴音ちゃん。どうかそれだけは」
「とても良く効くという薬ですから、断る道理などありませんね」
 そう言い切られては仕方がない。私は逃げることも出来ず、取られた右手から出来る限り顔を背けて、されるがままに従うより他無かった。

*

 翌朝は昨日とは打って変わって抜けるような晴天。仔犬も起き掛けに眩しそうに目を細めながらくぅんと鳴いた。私と貴音ちゃんが競い合うように白湯やら山羊の乳やらを与えてやると、その子は喜んで平らげ、もっととねだるように鳴いてみせた。昼前にはまだ雪の残る庭先を勢い良く駆け回って、捕まえようと追いかける貴音ちゃんを手古摺らせていた。すっかり元気を取り戻したようで、私はほっと胸を撫で下ろした。
「全く、あの犬ときたら。昨夜のしおらしい様子は一体どこへ行ったのやら」
「まぁまぁ。元気を出してくれて良かったじゃない」
 肩で息を吐きながら憤る貴音ちゃんを横に促し、二人で縁側に腰掛け仔犬の様子を見守った。貴音ちゃん曰く女の子らしいとの事だったが、それにしては随分と元気がいい。温かな小春日和の日差しで溶けかけた雪が足に纏わりついて重いのか、時折振り払うようにしてぴょんぴょんと跳ねまわっては、また端から端までまっしぐらに雪を跳ね上げながら駆け抜けるを繰り返していた。夏頃なら追えるような虫の類も豊富なのだが、今時期だとあまりそういったものがなくて面白味に欠けるのかもしれないなどと思う。
「ちはやぶる勢いとは、この事ですね」
 まだまだあどけないくせに心底疲れ切った表情を浮かべて、一人前に頬杖をつきながら貴音ちゃんが漏らした。
「そうねぇ」
 飽きもせず元気いっぱいに行ったり来たりを繰り返す蒼い仔犬の姿を眺めながら私も相槌を打った。もしこの子が私と同じ様にこの離れに留まるのであれば、同居人として名が無いと呼び辛い。既に今も、犬とだけ呼んでいるとこの子の事なのか、それとも石燈籠の下で眠るきょうだいの事なのか、判別し難い時がある。
 真名を知る事は命を握る事に等しい。増して親でもない者が名を与えるなど、その存在を縛り、服従させ、使役するのと何ら変わりない。とてもとても畏れ多い事。でも、そう。今だけ。この子に生ある限りの、一時の呼び名なら良いだろう。私が呼ぶだけの、今だけの仮の名ならば。
「――千早ちゃん」
「はい?」
 貴音ちゃんと庭先の仔犬が同時に振り返った。私は眩しい程に陽光降り注ぐ庭先に降り、足を止めた犬に向かって真っすぐ歩み寄る。足元の雪がさく、さくと軽快な音を立てた。
 仔犬の目の前でしゃがみ込んで両手を伸ばす。仔犬はしばらく戸惑った様子で私の手と顔を見比べていたが、そのうちおずおずと私の手の方に寄って来てくれた。それをふわりと抱きかかえて胸元に引き寄せる。不安定なのか、仔犬はもぞもぞと何度か身動きした後に、私に体重を預けてきた。
 じっと顔を覗き込むと、その子も不思議そうに私を見つめ返して鼻を鳴らした。
「――あなたの名前は、千早。如月、千早」
 仔犬が不思議そうに首を傾げた。
「あなたたちと私が二月に出会ったからと、あなたはとっても元気が良かったからよ」
 もう一度その子は鼻を鳴らした。分からないならそれで構わない。縛りたい訳ではないのだから。ただ、僅かな間だとしても、私の思い出の中に残るだろうこの子を呼ぶ為の名が欲しかっただけなのだから。
「ね、千早ちゃん」
 私がそう繰り返してひとり頷くと、不意に鼻の頭に冷たい感触があった。
「きゃっ」
 仔犬が私の鼻の頭をしきりに舐めていた。千切れんばかりに尻尾を揺らして、全身を擦り付けてきては嬉しそうに甲高く吠えた。
「嫌だ、もう、くすぐったいったら!ふふっ」
 私も腕の中の仔犬に頬ずりをしようとして、頬を舐められて、その度にくすぐったさと温もりを感じて、離すまいと必死に抱きしめると、腕の中で仔犬が苦しそうにもがいて、はっと気が付いて緩める。そんな風にいつまでもじゃれ合う私達を見て、貴音ちゃんが大人びた風に目を細めて微笑っていた。
 
*

 神社の離れに居を構える変わり者の家で仔犬を拾ったという話が街中に広まるのには、二日もあれば充分だった。三日が過ぎる頃には、町で一番賑やかな子供が他の子を連れだって遊びにやって来た。
「おじゃましまーす!」
「お、おじゃま……しますぅ」
 威勢良く門を叩いたのは大きな蝶々結びを二つ頭に結わえた天海屋の娘と、その後ろからおずおずと様子を伺う様に顔を覗かせた萩原の娘。
「あらあら、いらっしゃい」
「仔犬さん、いますか?遊んでもいい?」
 どうぞ、と私が招き入れると、草履を脱ぎ捨てて春香ちゃんが庭先目掛けて座敷を駆け抜け、雪歩ちゃんが恐る恐るそれに続いた。
「い、犬さん……やっぱりこわいよう、春香ちゃん」
 雪歩ちゃんが茶の間で口元に手を当てて往生している間にも、春香ちゃんはもう犬を抱き上げて黄色い歓声を上げていた。当の千早ちゃんは上手い事座りよく抱いてもらえていないのか、不服そうに鼻を鳴らしたりもがいたりしていたが、春香ちゃんにしっかと抱きすくめられている所為かあまり思う様に身動きが取れていないようだった。
「大丈夫だよ、雪歩!だってこの子こんなに大人しいもん!」
 庭先の春香ちゃんが得意げに千早ちゃんを掲げて見せた。遠目からでも大層良く分かる不貞腐れた表情に、私は思わず苦笑した。

 春香ちゃんの手土産の天海屋の饅頭に萩原の煎茶を添えて、貴音ちゃんが恭しい手付きで盆を運んできた。卓に着く春香ちゃんは大事そうに千早ちゃんを抱きかかえたままで、両の前足を掴んでは雪歩ちゃんに向けて振らせるなどしていた。その度に雪歩ちゃんが身を縮こまらせてひぅ、と悲鳴を上げては私に縋り付いた。千早ちゃんは別段暴れる様子もなく終始顔を顰めているだけだったけれど、雪歩ちゃんが怖がって逃げようとする度に、寂しそうに鼻を鳴らしていた。
「雪歩ちゃん」
 私は必死でしがみつく雪歩ちゃんの肩に両手を添え、じっと顔を覗き込んだ。ゆくゆくは萩原の家元、あの萩の原の百鬼夜行を背負うべき娘とは言え、まだ十にも満たない、気の弱い娘。それでいて、両の瞳に涙を一杯に溜めても私をじっと見つめ次の言葉を待っている、芯の強い娘。
「心配しなくても大丈夫よ。この子はとっても優しい子だから。雪歩ちゃんのお友達になってくれるわ」
「友達……ですか?」
「ええ」
 私は不安そうに聞き返す雪歩ちゃんに頷いて見せた。何故だか不思議な確信があった。近い将来、萩原の役目を彼女が立派にやり遂げるその傍で、後見として、友として、この子が支える様に立っている。そんな姿が見えた様な気がした。ふと見ると、千早ちゃんもこくりと頷いていた。
 雪歩ちゃんは意を決した様にごくりと生唾を飲み込み、おずおずと右手を差し出した。春香ちゃんが千早ちゃんを近付けてやると、雪歩ちゃんは一瞬びくりと身を震わせて目を堅く瞑って手を引っ込ませようとしたけれども、勇気を振り絞って踏みとどまり、引きかけた手を仔犬に向かってもう少し伸ばした。春香ちゃんも貴音ちゃんも、私も固唾を呑んで二人、正確には一人と一匹を見守った。
 目の前に差し出された手をじっと見て千早ちゃんは暫く迷っていた様だったけれど、ようやく春香ちゃんの腕から身を乗り出し、小さな舌でちろりと遠慮がちに雪歩ちゃんの指先を舐めた。
「ひゃうっ」
 悲鳴こそ上げはしたものの、雪歩ちゃんはとうとう手を引かなかった。申し訳なさそうに雪歩ちゃんを見上げる千早ちゃんに、雪歩ちゃんは今にも泣き出しそうに震える声で、それでも力強い意志を込めて尋ねた。
「あ、あの……わ、わたしと、お友達になってくれますか……?」
 幼子の精一杯の勇気を込めた申し出、同じ幼子にどうして断る事が出来ようか。
 甲高く吠えて応えた仔犬の、小さな尻尾が千切れんばかりに揺れていた。

*

 冬の終わり、雪も解けて形を無くし、春も近くなった頃。庭に残った雪を惜しむ心算で、日中から縁側に腰を据え雪見酒と洒落込んだ。もう春のものに変わり始めた日差しが温かく、着物の裾から覗く素肌をゆるりと温めてくれる。久方振りに戸棚の奥から引っ張り出した盃に温燗を注ぐと、熟成された甘い香りがふわりと湧きたった。
 もぞもぞと、伸ばした足元に毛玉が触れた。見ると、蒼色の仔犬が纏わりついてこちらをじっと見つめている。千早ちゃん。
「欲しいの?」
 私が酒を注いだ盃をくいと持ち上げてみせると、仔犬は物欲しそうに一生懸命両の前足を伸ばしては宙を掻き、背伸びをしては体勢を崩してぺたりと私の足に縋り付いた。
「これは駄目よ、あなたはまだ子供なんだから」
 杯を持った手は遠ざけたまま、空いた逆の手で仔犬を胸元に引き寄せて、庭先の雪が見えるように抱きかかえてやると、仔犬は行儀よく私の腕の中に収まって名残雪を眺めていた。
 と。
 突然、杯を握った手がふっと軽くなり、一拍の後にごくりと喉を鳴らす音と、いかにも心地良さそうに酒気を吐き出す音が頭上から聴こえた。
「いや、こんな昼間から呑めるとは思いませんでした、儲け物だわ」
 私が驚きに任せて思い切り振り返ると、そこにはきりりとした黒の着物を端正に着こなした女性が立っていた。頬をほんのり染めて舌なめずりをし、空になった盃と、残りの入った徳利に視線を落としていた。
「音無さん!」
 私の声に驚いたのか、背後に突然現れた闖入者に向かって、千早ちゃんも番犬よろしく威勢よく吠えかかった。
「きゃあ、犬は、犬は駄目なんですよ!」
「千早ちゃん、いいの、お客様だから」
 私がそう言い聞かせ、耳を撫でて宥めると、仔犬はようやく吠えるのを止めた。唸りながら睨めつけることはまだやめようとしなかったけれど。
「どうぞ」
「あ、いいんですか?それではお言葉に甘えて」
 私が隣を勧めると、彼女は難儀しながら縁側に腰を下ろした。背中の立派な一対の翼は、時にひどく邪魔になる事があるらしい。艶やかな漆黒に濡れた翼は烏のものだ。
 音無小鳥、偶像町を抱いて聳える山に棲む、神の遣いの八咫烏。本来であれば私の様な魔性とは相対する存在ではあるのだけれど、実際のところはこうして偶にふらりと遊びに来る間柄。酒を片手に二人飽きもせず取りとめのない話をするのが毎回の習わしになっている。
「名残を惜しんで雪見酒ですか」
「ええ」
「いいですねぇ」
 音無さんから盃を受け取り、注がれた液体を口に運ぶ。少しばかり辛口の味わいを舌先で転がして愉しみ、飲み下すと熱く痺れるような感覚が喉を滑り落ちる。
「珍しいですね」
 盃に酒を継ぎ足しながら音無さんが笑った。
「そうですか?いつもの事だと」
「そうじゃなくて」
 私が首を傾げると、音無さんは可笑しそうに口元に手を遣り、それから私の胸元の仔犬を指差した。千早ちゃんは今日の陽気が心地良いのか、腕の中でうとうとし始めていた。
「普段のあずささんなら絶対にそういう事をしないのに。別れる時に寂しくなるからって」
「……そうですねぇ」
 私は頷きながら仔犬の耳をそっと撫でつけた。柔らかな毛並みと仄かな体温、確かな重みを感じる。
「寂しくなっちゃいました?」
 寂しいのだろうか。私は。
「そんなこと……」
 そういうものだと知っている。仕方がない事だと言い聞かせている。例えばこの縁側で過ごす穏やかな時間も私の長い時間に比べればほんのひとときに過ぎない事も、使命を帯びて年不相応に大人びた家主の少女が私よりもずっと早く育ち老いて去ってゆく事も、仕方のない事。そういうものなのだから。それは今私の腕の中で寝息を立てる仔犬も例外ではなくて。
 不意に、音無さんが私の盃を取り上げてぐいと呷った。
「難しく考えなくてもいいんじゃないですか?」
「難しい、って……」
「好きなら好き、嫌いなら嫌い。寂しかったら泣いてもいいし、嬉しかったら笑ってもいい。ただ、人より長く生きられる分その回数がちょっと多いだけ。目の前の出来事に抱いた気持ちを大事にする権利は、あたし達にだってあるんじゃないかしらって、そう思うんです」
 そう言って、音無さんは茶目っ気たっぷりに片目を瞑って、舌を出して笑った。
 彼女は人に畏れられ祀られるべき偶像、私は人に怖れられ忌まれるべき偶像。
 私と同じ立場でありながら、音無さんは生きている。私はここに在る事を選んできたけれど、このひとはここで生きている。彼女が何度涙を流したのか、何度嗚咽を上げたのか、私には想像もつかない。それでも、こうして今穏やかに微笑んで、私の隣で酒を愉しんでいる。それが、彼女が目の前の出来事に抱いた気持ちを大事にしてきた結果なのだろう。

 ――生きる事は、痛みから逃げない事だ。

 私はゆっくりと頷き、千早ちゃんをしっかりと抱きしめた。
「……成程、そうかもしれません」
「そ、だからあずささんがその子を大事にしたいなら、そうするのがあずささんにとって一番いいんです」
 音無さんが一際柔らかく微笑んで、そして、含みのある満面の笑みにぱっと切り替えた。
「という訳なので、目の前のあたしの為にも盃をもう一つと、熱燗が欲しいなぁ、と」
 思わず、頬が引き攣るのを感じた。
「はい、じゃあ直ぐに用意するので、その間この子をお願いします」
 ぐいと、音無さんに千早ちゃんを押し付けて席を立つ。あっという間に音無さんが身を堅くするのが見て取れた。幾ら神の遣いと言えども、犬に追い立てられてては堪らないのが烏の性分だ。微睡んだままの千早ちゃんが音無さんの腕の中で眠たげに一声吠え、音無さんが悲鳴を上げるのが聞こえた。
 本当に、しまらないひと。
 徳利を数本温めて、つまみに沢庵を刻みながら、私はひとりごちた。

*

 季節は巡る。
 暖かな春が過ぎ、茹だる様な夏が過ぎ、鮮やかな秋が過ぎ、肌寒さが再びの冬の訪れを予感させる頃、
 千早ちゃんが熱を上げた。

 ひどく冷える夜半過ぎの事で、私はどうしようもなく慌てたまま震える仔犬を抱きしめて、白湯を飲ませたり熱い湯に浸した手拭いで何度も体を撫でてやったりしたけれど、そんな事で熱が治まるはずもなく。薬箱の中身は傷薬が殆どで、唯一残っていた頓服を飲ませてはみたけれど効き目がある様には思えない。
 こういう時に限って、貴音ちゃんがいない。親戚御一同が介する定例の会合に顔を出していた。私にはその場に割って入る事が出来ない。呼びに行くのは不可能だった。頼れる人も混乱した頭では全く思い付かない。運良く音無さんあたりが様子を見に来てくれないだろうか。いや駄目だ。あのひとなら一緒になっておろおろするだけに違いない。全く、肝心な時に役に立たないひと。思わず悪態などついてしまう。
 腕の中の仔犬の震えは治まらず、息は荒くなるばかり。時折苦しげに鼻を鳴らしては、前足で宙を仰ぐ。
 もし今この子がいなくなったら私はどうするのだろう。この子が。この子の熱さがふっと失われて、重く冷たく私に圧し掛かる様を思い浮かべて、ああ――
「ああ、そうだわ、何か温かくて元気の出るもの……」
 ふと思い立ち台所に立つ。幸い卵が一つ残っていたので、酒と砂糖を合わせて卵酒にする。手を動かしている間も気が付くと悪い方、悪い方に考えてしまう。駄目だ。そんな事を考えてはいけない。私に貴音ちゃんの様な力があれば、「何ともない、すぐに良くなる」と一言口にするだけであの子は簡単に元気になってしまうのに。私には何も出来ない。何も、してあげられない。私は何も知らない。こういう時、人はどうやって介抱してあげるのか。どうしたら快方に向かうのか。この小さな仔犬の生を守ってあげられるのか。堪らない無力感をどこにぶつければいいのか。本当は一つだけ方法がある。でも、それは。それだけは出来ない。そうしたらもう戻れなくなる。この子も、私も。
 私は、あまりにも無力だった。
 今まで何もかもを諦めてきた代償にはあまりにも大きすぎた。
「ほら、少しでもいいから飲んで、元気を出して……」
 出来上がった卵酒を木匙で掬って、仔犬を抱き上げて口元に寄せてやる。甘い匂いを嗅ぎつけたのか、口元から舌をちろりと覗かせるものの、そこで力なくだらりと垂らしてしまう。ものを口にする気力もなくなってしまったのか。頑張って、と背中をさすってみても、辛そうにするばかりで私の期待に応えてはくれない。
 そうこうするうちに、仔犬の呼吸が弱くなった。腕の中で、たった今まで熱くて堪らなかった筈の体温がみるみる失われていく。それに気付いた瞬間、目の前が真っ白になった。先程まで震えていた身体ももう殆ど動かない。抱きかかえる重さが余計に重くなっていく。遠のいていく。駄目、まだ駄目。お願いだから。勝手にいなくならないで。何度繰り返しても慣れる事などない。息が詰まって苦しい。目頭が熱い。何か出来る事は。私に何か出来る事は。

 もう私には嗚咽を上げながら抱きしめる事しか、出来る事が残されていなかった。

*

 はたと目が覚めると、私はだらしなく茶の間に転がっていた。縁側からはもう大分高くなった日差しが差し込み、屋内を眩しい光と仄かな暖かさで満たしていた。鈍々と起きあがり布団を退ける。誰が掛けてくれたのだろう。そこまで考えて、私はようやく昨夜の出来事を思い出した。あの仔犬がいない。しっかりと抱きしめていた筈のあの子が、腕の中に居ない。慌てて周りを見回してみても、姿形も見えはしない。あんな具合で一体どこに行けるというの?
 焦燥で沸き立つ私を、ふと甘い匂いが包んだ。粥を炊く温かな蒸気。それと、少しの焦げ臭さも。一体誰が、という疑問と、突然思い出された空腹が我慢出来ずに気になってふらふらと立ち上がり、台所を覗くと、見覚えのない娘が一生懸命に鍋の中の米と格闘していた。年の頃は貴音ちゃんと同じ位。蒼くて綺麗な長い髪を後ろで纏め、線の細いすらりとした肢体を申し訳程度に巻いた布で隠している。何より、髪の隙間から覗く大きな犬の耳と、腰から生えた立派な尻尾。まだ幼さを残しつつも整った横顔は凛として美しかったが、どんどん焦げ付いていく鍋に癇癪を起こしているらしく、綺麗な顔が台無しだ。
 彼女は私に気付くと、険しかった顔を崩して申し訳なさそうに笑った。
「あ、あずささん……起きてらしたんですか。お早うございます」
「ええと……お早う?」
 私は思わず首を傾げた。彼女は私と面識があるらしい。でも私は彼女に覚えがない。この街の住人に犬の相を現した者がいただろうか?記憶を辿るが、それらしい人物に心当たりはなかった。犬、犬。
 いや、いるではないか。でも、まさか、そんな。
 私の困惑を見てとったのか、彼女が改めて私に向き直り、深々とお辞儀をした。
「驚かせて済みません。千早です。あなたにはいつもお世話になって」
 千早ちゃん。そう言った。半分獣の少女の姿。つい昨日までこの両腕の中に収まっていた小さな蒼色の仔犬が、今はこうして私の目の前に立っている。どうして。いや、それよりも。
「千早ちゃん?本当に、千早ちゃんなの?」
「はい」
 彼女は頬を桜色に上気させて、はにかみながら頷いた。
「その……昨日の晩に熱を出して、とても苦しかったのはぼんやりと覚えているんです。でもその後の記憶がなくて……気が付いたらこんな身体になっていて、それで、横であなたが眠り込んでいたので、せめて何か出来ないかと思って、布団をかけて、食事の支度でもしておこうと思ったのですけれど、その……見様見真似では上手く出来なくて」
 そう言って、彼女は済まなそうに耳をぺたりと伏せて俯いた。その仕草が何だか可愛らしくて、私はぷっと吹き出してしまった。
「な……笑わないでくださいっ。私だって頑張ってはみたんですからっ」
 千早ちゃんが顔をますます赤らめてむくれる。ごめんなさい、と宥めながら、腰を屈めて彼女の頭を抱き寄せた。私の胸元に届くかそこらの小さな背丈。艶やかな髪に触れるとあの仔犬の毛並みと同じ、柔らかくて温かな感触がそこにあった。
 そうだ。思い出した。元よりこの仔犬が全うに生を閉じられる筈も無かった。
 あの時、この子が私の手に噛み付いた時に、この子は私の血を口にしていて。もうその時にはこの子は全うな犬としてはもう生きられなくなっていた。私と生を共にするより他に道が無くなってしまっていたのだと。それでも、私が運命を歪めてしまったこの子は、私の目の前で戸惑い恥じらうこの子は、何も変わることなく愛らしくて温かい。
 私はなんてつまらない意地を張っていたのだろう。
 可笑しくて、お腹の底から笑いが込み上げてくる。
「ああ、良かった。ふふふ、あなたが無事で本当に良かった」
「あ、あの」
 当惑する千早ちゃんに構わず、私は彼女を強く抱きしめた。確かな温もりを全身で感じる。私はまた彼女をこの腕に抱きしめられて嬉しいと思っている。けれどもそれは彼女も望んだ事なのだろうか。
 ――いいえ、知らない。私は何も分からない。知った事じゃない。
 ただ、私がこの子を大切にすればそれでいいのだから。
「千早ちゃん」
「はっ、はい」
 緊張と動揺で上擦った声。想像していたよりも柔らかくて、どこかあどけなさも時々映る、そんな声。それが聴けるのも、彼女がこんな身体になったから。
「私、今のあなたも好きよ」
「そ、そうですか?」
 千早ちゃんの尻尾がふるふると揺れた。あれは以前にも良く見た仕草だ。多分、嬉しい。
「私も、嫌いではないです。出来る事も、とても増えましたし……」
 続きは、私の耳元でそっと囁いた。
 今、こうして言葉を交わせる事が、何よりも、嬉しい。
 そう言って、千早ちゃんが恥ずかしそうにくぐもった笑いを漏らした。
 私もつられて笑った。
 これから先、永い時間をこの子と私は一緒に過ごすのだ。二人きりの伴侶。それが幸せかどうかは分からないけれど、私にはこの子の幸せを守る義務がある。いいえ、また難しく考えてしまう。出来るなら、私達が許される限り永く温かで穏やかな時間の中に生きられるように。そう、例えば今この偶像町で過ごす日々の様な――……

「ああ、もうっ!貴方様は一体何をしているのですか!」
 けたたましい悲鳴で私達ははっと我に返った。見ると、鍋の火を消し止めた貴音ちゃんが頬をぷっと膨らませて、腰に手を当て仁王立ちしていた。いつの間に戻ってきたのだろう。もしかしたら、最初から全部見ていたのだろうか。
「こんなに鍋を焦がしてしまって!もう少しで火を出すところだったではありませんか!あなた様は目を離すとすぐこれなのですから!だから一人にはしておけないのです!」
 実に耳が痛い。貴音ちゃんの指摘は尤もだ。私が何も反論できないでいると、代わりに千早ちゃんが噛みついた。
「そんな言い方しなくてもいいじゃない!それは私がつけっ放しにしていたのだから、あずささんのせいじゃないでしょう!」
「……?」
 貴音ちゃんは一瞬固まって、一拍置いてから私をきっと睨みつけた。瞳の端がほんの僅か潤んでいる様にも見えたけれど、私は気付かなかった事にした。
「……あずさ、あなた様はわたくしの居ぬ間にどこの誰ともよう知れぬ娘を家に上げる様な方だったのですか?わたくしはあの日以来貴方様に尽くしてきたつもりだったのに、この仕打ち」
 さめざめと泣く様に貴音ちゃんは両手で瞳を拭い、そのまま今度は千早ちゃんを指差した。
「あなたですね。あなたがあずさを誑かそうとしているのですね。この不届きもの、おのれ化生。わたくしが成敗してさしあげます」
 そう強い口調で言い放って、どこからともなく取り出した桜の枝を千早ちゃんに突きつける。ああ、それは駄目。それはいけないと制止する間もなく、千早ちゃんも身構え右の手を眼前に据えた。
「こっちだって、あなたがここまで嫉妬深くて気難しい人だとは思わなかったわ。あなたがそこまで言うのなら、私も気が済むまで相手をしてあげる」
 ざわりと茶の間の空気がさざめきたつ。二人の気が高まり互いの領域が触れ合ってちりちりと火花を散らすのが見えはしないけれどそう表現するのが恐らく正しいのではないかという圧迫感。一体何が始まるのだろう。私はもう一人で逃げ出したい気分になっていた。
「あずさ」
「あずささん」
 半歩、下げた足を二人が見咎めたのはほぼ同時。お互いにだけ注意を払っていたのではなかったのだろうか。分からない。本当に私には何も分からない事ばかりだ。
「逃げるおつもりなのですか」
「薄情なのですね。さっきはあんなに情が深い様な口振りだったのに、ああやって騙すんですね。恐いひと」
 二人が私に向ける視線が一気に冷たいものに変わった。この二人、本当はかなり馬が合うのかもしれない。それなら仲良くしてくれれば良いのに。恐らくその時の私は思い切り引き攣った笑顔を浮かべていたのに違いない。背後から黒い炎を立ち昇らせて二人が私に詰め寄る。じりじりと後ずさりするうちに背中に堅い感触を感じる。この部屋はこんなに狭かったか。
「あ、あのね、二人とも……」
「何です、あずささん」
「言い訳があるのなら聞き入れますが」
「ええと……」
 言葉に詰まって目を逸らしたふりをして、玄関までの距離を確認する。幸い、私からの直線上に二人は重なっておらず、その気で走れば逃げ切る事も難しくなさそうだ。
 私は腹を決めて、二人ににっこりと笑いかけた。
「私、天海屋さんでお饅頭を買ってきますね」
「えっ」
「えっ」
 面喰らってぽかんとした表情を浮かべた二人を確認して、私は全速力で玄関に向かって駆け出した。途中で日傘を掴み、思い切り広げながら外へ飛び出した。後ろで私を追う声が聞こえたけれど、出来る限り耳を塞いで聞かなかった事にする。確かに、ひとりは寂しいとは思ったけれど、何もここまで騒がしくしなくたっていいのに。ほとほと困り果てながら街中へ向かう坂道を駆け下りる途中で、頭上からくすくすと笑う声が降ってきた。
「ついでにあたしにもお饅頭もうひとつ」
「ひとを便利に使わないでくださいっ」
「そう言わずに、道案内してあげますから」
 音無さんはすっかり他人事だと思って面白がっている様だ。ひどいひとと思いながら、私は舞い始めた雪の中を背中の翼を羽ばたかせて先を飛ぶ音無さんの後を追いかけた。

*

 あの日と変わらない、ふんわりとした天海屋の饅頭を頬張りながら熱い煎茶を啜って、音無さんが笑った。
「そういえば、そんな事もありましたっけ」
「そうですよ。あの日は本当に大変だったんですから」
 私は縁側から両足を無造作に投げ出して、ぶらぶらさせていた。 
「賑やかでいいじゃないですか」
「ここまで賑やかだと困る事もあります。最近はなんだかんだ仲良くしてくれているけれど」
 今日も解け始めた雪を見て、丁度帰省していた春香ちゃんやら仕事を納めた真ちゃんやらを巻き込んで雪が無くなってしまう前に雪合戦をするのだと二人でいきまいて出掛けて行った。あまり他所様に迷惑をかけなければいいのだけれど。
 音無さんが湯呑を呷って一つ溜息をついた。
「どんな気分です?」
「どんな、というのは?」
 音無さんは少女の表情をして悪戯っぽく笑った。
「生涯の伴侶を持った気分ですよ。ほら、こう、なんだか浪漫ちっくじゃないですか」
 なるほど音無さんにはそういう憧れがあるらしい。偶に都会に降りてはそういった類の大衆図書を拾ってきて読んだりしていると聞いた事があった。例えば西洋で言う白馬の王子様が運命の姫君を迎えに来るような物語。例えば律子さんの描く様な少女趣味で女性的な恋慕の物語。もしかすると、この町の年頃の娘たちの誰よりも、音無さんはそういった事情に詳しいかもしれない。
「そうですねぇ」
 私は腕組みをしてしばらく考えを巡らせて、そして、結論した。
「分かりません」
「ええっ」
 結局のところ、私には何も分かった事など増えはしなかった。ただ、同じ早さでは生きられなくとも、同じ時間の中で生きる事は出来るし、普通の人となら別離してしかるべき時間が過ぎた後にも私が血を分けたあの仔犬が傍にいてくれるなら、それはとても頼もしい事に違いないのだ。
 でも、その瞬間が来る事を今は望まない。こんなに穏やかで、こんなに幸福で、こんなに多くの人に囲まれた時間は一分一秒でも長く噛みしめていたいものだと。そう思う。
「その時になってみないと分かりません。そして、それはもっとずっと先の事だから」
「あー、逃げましたね?あたしは今現在の印象を聞いたんですけどぉ」
「じゃあそっちは教えてあげません」
「ちょっと、あずささんったらぁ」
 口の前に人差し指を立てると、音無さんは残念そうに不満を漏らして、私の分の饅頭にまで手を出した。仕方ないので放っておくけれど、後で「太る」と釘を刺しておいてやろう。

 永い時間を生きる私にも、きっとこれからは少しだけ違う先が待っている。
 だから、今の私は腕の中の確かな温もりを信じて、目の前にある全てさえ大切に抱いてゆける。
 そう答える代わりに、私は音無さんにとびきりの笑顔で笑ってみせた。

(了)

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あずちは。

なかなか素敵な絆だと思います。
こうなるとまた、貴音さんも大変ですね。
個人的には小鳥さん登場が嬉しいです。
年も明けましたが、
今年も偶像町が少しずつ広まる事を祈念します。

Re: あずちは。

というか、これがやりたかっただけだろお前と言われたら
もう平服するよりほかありませんゲフンゲフン
貴音さんには苦労をかけますが多分仲良くやってくれるんじゃないでしょうか。
永く幼い関係と、短く成熟した関係、みたいなものを。
多分、きっと、そうだといいなぁ。

小鳥さんは思った以上に飄々としちゃいましたが
楽しそうで何よりです。

今年もごゆるりと、偶像町を見守っていただければ幸いです。

長命種の想い

始めまして。おしると申します。

長く生きるが故の命に対する距離感と、静かな日常に喧騒が増した瞬間。
時に楽しく、時に悲哀を感じながら読ませて頂きました。

あと、千早は、あずさと共に長く生きた末に、猫又のような感じで化生となったのかと思ってましたが、全然若くてちょっと驚きました。


私も以前に偶像町を題材にしたSSを書かせて頂きましたが、今年は動画も作らせて頂くつもりですので、どうぞ宜しくお願いします。

小鳥さんも出てきましたし、小鳥スキーとしても、張り切りたいと思います。

Re: 長命種の想い

おしるP、こんにちは!こちらでははじめまして!
先日はSSを寄せてくださってありがとうございます。
とても楽しく拝読させていただきました。

千早の話と銘打ちながら
今に至るまでのいろいろを辿る形になっちゃいましたね。

千早の時間はまだまだこれからなので
あずさなり貴音なり春香なり雪歩なり、ゆっくり良縁を築いていくような
そんな未来があると良いなぁと思うのです。

今年は動画作って頂けるとのことで!嬉しいです!
いちファンとして楽しみにしております!
私も近いうちに偶像町アイドル達の立ち絵など用意したいなぁと思ってますので
良ければあれが欲しいこれが欲しいとか言ってもらえたら
早めに出てくるかもしれません(笑)

ではでは、小鳥さんともども
今年も偶像町をよろしくお願いします。
プロフィール

百合根(sii)

Author:百合根(sii)
あずさ・千早・貴音P。
アイマスと嘘屋と東方と
実況で生きてます。
あずちはが俺の歌姫楽園。
あずたかが俺のムーンライト伝説。
たかちはは北の白い恋人ごっこ。

近況
◆直近
(7/19)しあわせなじかん

◆参加・お手伝い
ShinyGirls!(×格無しP)
私屍(×独眼P)

◆予定
のんびり5話
嘘m@sいろいろ

自コミュ:百合根をふかしてもぐもぐ(仮)
ついった:sii1001
ぴくしぶ:sii

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